松井要三先生の遺産
柔道の精神を継承する
故松井要三先生に捧げる特設ページ
名誉会長 渋谷修悦先生からの寄稿によせて
故松井要三先生の功績
松井杯少年柔道大会開催にあたり、我々の柔道界に多大な貢献をされた故松井要三先生に捧げる特設ページを開設しました。
黒石市柔道協会名誉会長である渋谷修悦先生の寄稿をきっかけに、松井先生の遺産を後世に伝えるこの場を設けられたことを嬉しく思います。
松井先生の人間性と柔道への深い愛情を振り返り、その教えが永遠に受け継がれることを願っています。
松井杯少年柔道大会について
故松井要三先生の遺徳を讃え、先生の教えを受け継ぎながら、柔道を通じて青少年の健全な育成を促し、地区の青少年間の交流と技能の向上を目指しています。
この目的を達成するため、公益財団法人黒石市スポーツ協会の共催、黒石地区柔道整復師会の後援のもと、松井杯少年柔道大会を開催しています。
大会概要
- 目的: スポーツを通じて青少年の健全育成をはかり、柔道を通じて地区青少年の交歓と技能向上を目指す。
- 主催: 黒石市柔道協会
- 共催: 公益財団法人 黒石市スポーツ協会
- 後援: 黒石地区柔道整復師会
- 参加資格: 中弘南黒地区の小学生・中学生
- 小学生団体戦・低学年 (1・2年) 1名と3~6年まで各学年1名の計5名で1チーム
- 中学生団体戦・男子団体編成は学年オープンの3名、女子団体編成は学年オープンの3名
- 個人戦・小学生は男女学年別、中学生は男女別の全6階級
- 試合方法: 団体・個人・男女ともトーナメント方式
- 審判規定: 国際柔道連盟試合審判規定及び国内における少年大会特別規定による
- 表彰: 第1位から第3位まで表彰する
黒石市柔道協会名誉会長
渋谷修悦先生の特別寄稿より
松井先生の情熱
黒石柔道協会会長 渋谷修悦
黒石市の柔道会の歩みを調べてみたいと思って、あれこれ資料を漁っていると、興味深い記事に出会った。ここでは昭和30年の東北東西対抗を紹介したい。
・昭和30年7月27日のみなみ新報(現、津軽新報)の記事
東北柔道連盟では30年度の東北東西対抗柔道大会を黒石市で開くことに決定したが、黒石地区柔道会(会長 松井要三)ではこのほど黒石公民館で役員会を開き、大会期日を8月21日と決め、試合方法を次の通り正式に決定した。
①試合方法一東西対抗(東軍=青森・秋田・岩手、西軍=山形・宮城・福島)
②選手一各県の代表参段三名、四段三名、五段二名による東西対抗勝抜戦
③略す
・8月18日、同紙に掲載された広告
東 北 柔 道 大 會
日時 8月21日(土)午前10時試合開始
場所 黒石小学校仮設試合場
1.日本選手権保持者醍醐六段七人掛け
2.六縣東西對抗勝拔戰
3.個人戦(東北六県選手権争奪戦)
主催 黑石体育協会
入場料前売 大人150円 学生100円 小人80円
当日入場料 大人200円 学生150円 小人100円
因みに、この時の映画館は安い所で大人40円であるから映画5本分の値段である。今の映画の料金で換算すると、7,500円になるようだ。なお、当日は1,500人の観衆を魅了したとあるから柔道の人気はすごいものである。
・8月20日(土)大会前日の記事
神技みせるか醍醐・夏井両六段との見出し
東北大会が本県で開かれるのは、26年の八戸大会以来で柔道愛好家には絶対見逃せないところ。…この大会の呼び物は、醍醐・夏井両六段が各県の優秀選手を相手にしての七人掛けと五人掛けである。…。
・弘前柔道史によると
七人掛けの六段醍醐敏郎氏は(5段1人 4段2人 参段4人)を5分30秒で一人ひとりを全部異なった技で投げ、五人掛けの六段夏井昇吉氏は(5段1人 4段1人 参段3人)を4分25秒で倒したとある。いずれも素晴らしいの一言に尽きる。
当時、松井要三会長は32歳。この大会を成功させるために東奔西走したに違いない。そして柔道の素晴らしさを柔道愛好家・一般市民に見せたかったに違いない。
黒石柔道会草創の頃
黒石市柔道協会 会長 渋谷修悦
昭和60年7月16日の津軽新報に、興味深い記事があったので紹介する。珍しい顔ぶれが見られるので是非ご覧願いたい。
初代会長(故松井氏)囲んで
黒石柔道会25年の講習会 なつかしのスナップ
昭和二十五年当時の写真だという。戦後の二十五年に結成された黒石柔道会が、神明宮そばにあった弓道場でひらいた柔道講習会の記念写真。
弘前高在学生徒がズラリ。前列に、左からソフニ書店専務の祖父尼賢一さん、袋井の寺口さん、北奥羽信用金庫黒石支店のところにいた松井さん、松村菓子店の松村定幸さん、よされ横丁のときわ家主人だった故三上昭一さん、浅瀬石の工藤さんが並んでいる。
二列目中央の体格のいい人が柔道会初代会長の故松井要三さん。その左隣が(左官業)同四代目会長の盛輝男さん。盛さんは当時、千葉タンス店につとめていて、二市四郡の大会で二位になった時、千葉社長から”包み”をもらったことが思い出として残っている。柔道はなかなか盛んだったようで、黒石高、薬師寺にも道場があり、一足早く山形柔道会も発足している。写真に写っている中には医師、学校の先生になった人が五人ほどおり、その一人が黒石高教諭の須藤陸奥之介さん。(三列目の左から二人目)また、中村市長の弟、中村恭二さん(最後列の柔道着の人、現在は東京都中野区在住、県観光物産東京サービスセンター所長)がいる。ほかにも、ぐみの木の石沢栄さん、「初駒」のオンチャマら、そうそうたる”兵”(つわもの)がいっぱい。
(黒石市境松二丁目、盛輝男さん提供)
柔道、今昔あれこれ
黒石市柔道協会 会長 渋谷 修悦
(1)、17回大会(H11.4.18日)-東北柔道黒石大会を
(2)、18回大会(H12.4.16日)-大正後期の稽古の様子(柔道の勇者 岸谷隆一郎)を
(3)、19回大会(H13.4.22日)-黒石柔道回草創の頃(写真を通じて)を
20回目の今回は、昭和28年5月24日のみなみ新報に次の記事が載っていたので 以下に紹介する。
郡下人物祭典 (140)
滲み出る近代的センス
黒石地區 柔道會長 松井要三
らい落な心情と多種多藝の持主として人々に親しまれ愛されている氏は一見して實業家肌の堂々たるタイプの持主。黒石町の老舗マルチ薬局の專務として実質上の運営を支配し業界に確実な地歩を進めると共に柔道界のナンバーワンとして活躍を續けている。
氏は大正十二年松井家の三男に生れ今年三十才。昭和十七年弘中から仙合藥專に学び藥劑師として二十一年からマルチ薬局の專務となり尊父より事業を受つぎ今日に至っているが、飾らぬ服装の中にも滲み出るような近代的センスを持っており、その着実な在り方は強い信頼となり信用となって今日の繁榮となっている
この様な氏が柔道の四段で五段昇格の推薦を受けている人であると云ったら驚く人もあろうか。中学時代からキリン児とうたわれて主将として各地に轉戦、勇を鳴らした人で、日本一を目指して精進した時期もあると云う。二十六年四段位を獲得、黒石地区柔道會を組織、押されて会長となり週四回、忙しい日常の中にあって会員の指導並に学校警察の指導にも當つている
大正11年頃の黒石の柔道
黒石市柔道協会 会長 渋谷 修悦
みなみ新報(現、津軽新報)のコラムに興味深い記事があったので紹介する。
見出し 柔道の勇者、岸谷隆一郎さんのこと
これは元県りんご試験場庶務課長の岩谷松男さんの話しです。それは雪が積っていた冬の日の出来事でした。
当時、黒石の青年団に柔道熱が盛んで、元の警察署の前にあった道場で、毎日稽古がありました。中村亀吉(元市長中村淳治氏の実父)さんや佐々木悌三先生、松半さんのオンチャマなどが教えていたようです。
ある日、突然道場破りがあらわれたんです。農事試験場へ新しく来た遠藤(青木だったか?)という技師で、背丈は五尺六寸、目方は二十二貫位、当時は五尺三寸が普通以上の時代ですから堂々たるものです。盛岡高等農林出の四段というのですから、町の青年たちがかなうわけありません。片っぱしから苦もなく投げ飛ばされるばかりです。
師範格の連中も同様、歯がたちません。
これを見ていたグミノ木の花田隆策さんが、岸谷隆一郎さんをたちむかわせることを思い付きました。
さっそく居合わせた福田英三君に話したので、福田君はすぐ飛び出して、ほうぼう探して、新坂の坂上の中村という床屋で将棋をさしている岸谷さんを見つけたそうです。そこで、柔道の試合に出てくれというて、断られては困るので、「いま道場でケガ人がでたから、すぐ来てくれ」と頼んだそうです。
それに騙されて来てみたらこの有様です。花田さんが「これこの事情だ」と話したら、岸谷さんは無言で柔道衣に着かえました。その時の態度は平然と落ち着きはらって、ウルダク風がみえません。
そして、しずかに遠藤四段と相対しました。柔道は相撲と違って強い方が引っぱるようです。お互いに引っぱり合ってあちこちとまわり、その間に遠藤四段が技を二、三度かけましたが、岸谷さんは引っかかりません。
岸谷さんは遠藤四段よりーまわり大きい五尺九寸、体重二十四貫ですから、さすがの遠藤四段ももてあまし気味です。
こうして二人が道場をひとまわりして、入口の方のタタミのしかない板敷きのところに来た時、岸谷さんは矢声とともに技をかけました。跳腰だったか、背負い投げだったか、目にもとまらぬ早業です。その瞬間遠藤四段は板の間にマリのように投げ飛ばされていました。さすがに四段です。すぐに膝をついて「参りました」と頭をさげました。
岸谷さんは正しく答礼をすますと、すぐに着物に着替え、首に豆しぼりの手ぬぐいをまいて、悠々と後もみずに出ていってしまいました。多分さっきの将棋が気になってならないのでしょう。
岸谷さんを見送った遠藤さんが、花田さんに「いまの人は何段ですか」と聞きました。花田さんは、待ってましたとばかりに「あれァ一級ですョ、あれくらいのは何人もいますョ、強いのは四段も五段もいます」と吹きまくりました。
私は、岸谷隆一郎さんのことが話題にでるたびにこのときの姿が目に浮かびます。あれほどの人物は日本にも、そうザラにあるものではないと思います。まことに惜しいことをしたものです。
岸谷隆一郎氏の追悼文(みなみ新報 昭和十年八月二十八日筆者アマカラ)
この記事にはかなり誇張された個所があると思うが、大正後期の稽古の様子を垣間見ることができる。
参考資料
- 写真はカラー加工をしています。
- 今後、内容の充実化に取り組みます。